【戦艦大和は日本の身代わりだったのか?】
以前に「男たちの大和」をレンタルで見たことがあった。
映画の最初に沈んだ大和が映し出され、艦首の菊花紋章が映し出され、ライトに照らされた菊花紋章は形容しがたい色の輝きを放っていた。
「大和だ」オレは興奮していた、沈んだとはいえリアルタイムで、映像とはいえ、オレの目で見られるとは思ってもいなかった。
「戦艦大和」は不思議な船だ、戦艦同士の派手な撃ち合いもなく、華々しい戦歴があったわけでもない。
けれども、多くの日本人は戦艦大和を知っている。
確かに間に松本零士氏が造りあげた「宇宙戦艦ヤマト」の功績はあるにせよ、多くの日本人の中では「大和」は、まだ沈んではいない・・・・たぶん。
オレがまだ若い頃、町内に戦艦大和を見たことがある爺さんがいた。
入港してくる戦艦大和を見て、圧倒的なデカさに度胆を抜かれ、フネの概念は吹っ飛び、巨大な山みたいだったといっていた。
オレも見たかった、満載排水量7万2000トン、世界中のどんな戦艦よりもデカかった戦艦大和、でも沈んだ。
【戦いを拒絶した大和】
日本海軍は大和をなぜか実戦に出さなかった、実戦で死ぬか生きるかの戦火をかいくぐってきたフネにしてみれば、悠々と泊地に留まり続ける大和、武蔵を見てオモシロいわけがない、その結果、揶揄を込めて大和ホテル、武蔵旅館と呼ばれるようになる。
時々思うのだけれど、わざわざ真珠湾まで行かなくとも、太平洋のド真ん中に大和、武蔵を浮かべていたら、アメリカ太平洋艦隊を根こそぎ沈められたのに・・・と思うことがある。
他人ではなく自分自身を説得するために、大和は戦いを拒絶したフネだと思うようになった。
なぜか?これも分からないから、都合のいい理由として日本の身代わりとして、多くの乗組員と共に、人の手の届かない海底に沈んだ・・・・・・そう思うことにした、だから日本人の心の中に残り続けた、乱暴かもしれないけれど。
【青春は屍と共に】
昭和20年、1945年4月6日、戦艦大和は水上特攻として、沖縄に出撃する。
7日、ついに敵攻撃機との戦闘が始まった、大和上空には味方戦闘機など居るはずもなく、敵攻撃機は悠々と飛び回ったに違いない。
最後部特設機銃にいた後藤虎義氏によると、午後から左舷に魚雷の集中攻撃があり「そりゃ、凄かったよ。海が何百という魚雷で、真っ白に泡立っていた」とある。
戦闘が始まると、大和の甲板は血で染まった、十五、十六歳の少年兵も乗っていた。
普通であれば、極々普通の生活を楽しんでいた、少年達も大和に乗り込んでいた。
艦内も艦上も修羅場と化した、甲板上には千切れた手足が散乱していた。
大和が傾き出すと、甲板上のありとあらゆるものが転がり始まる、25㎜機銃の空薬莢、吹き飛ばされた鉄の破片、機銃台座、そして人間。
午後4時30分ころ、艦首の沈下が止まらず遂に艦首が沈没する、すでに復元力を失った大和は遂に沈没する。
若い兵員に翼があったら、大和から飛び立てたろうに・・・・。
船が沈むとき船首を北に向けるが、それができる力は大和には残っていなかった。
【参考資料 「戦艦大和発見」 著者・辺見じゅん 原勝洋 ハルキ文庫】
««««««««««««««««««««««««««««««««««««««««««««««««««««««««
【海底の大和】
菊の紋章が見えたときジョン・ジェリー艇長が言った言葉
「This is YAMATO」が今でも頭の中にこびり付いている。