By The Sea

初めての渓流釣りの人へ、街の喧騒を離れ出かけよう

戊辰戦争とマタギ (別の視点から捉えたマタギ)

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戊辰戦争 Wikipediaからの画像

秋田に住んで渓流釣りをしていると大小の野生動物を嫌でも見てしまう。

会いたくない野生動物のトップにいるのが、熊。

自分の背中に翼が生えてたら、サッサと逃げられるのにとよく思う。

 

マタギ文化を紹介した記事は多いが、それとは違うマタギの姿を書いてみた。

熊を狩猟の一部としていた人達、マタギが秋田には古くからいた。

昔は弓と槍での猟だったけど、江戸時代から火縄銃を使い出した。

どうして火縄銃を入手出来たかというと、秋田の佐竹藩に熊の肝と毛皮を上納するためだった。

こうして秋田のマタギ達は銃の扱いと、射撃の腕を上げていった。

 

そして幕末、秋田の阿仁マタギ達は戊辰戦争に巻き込まれてゆく。

東北で数少ない官軍側に付いたのが秋田藩弘前藩、周りは佐幕側で当然不利な状況にあった。

戦力増強を図りたいため秋田藩が目を付けたのが、阿仁や仙北地方のマタギだった。

シカリ(統領)を絶対的な信頼を置く頂点に据え、その指揮下での猟の形態は戦争時でも活かされた。

そして何よりも銃の扱いに慣れ、射撃の腕も一流であるマタギ集団は即戦力になった。

 

藩ではマタギ士分格として召し抱え「新組鉄砲方」と名付けた特別部隊を組織した。

1864年、佐竹候が京都御所警護の任に就く際、マタギ部隊を引き連れて上洛している。

正に時代が変わりつつある象徴的な光景だったような気がする。

 

そして、日本の内戦ともいえる戊辰戦争マタギは場所を猟場から戦場に変え、力対力の修羅場でマタギの別の真価を発揮する事になる。

 

岩手の南部藩秋田藩に大攻勢を懸ける、その時に阿仁地方での攻防戦で、自分の庭のように知り尽くした山中を駆け巡り、南部藩の兵士をなぎ倒すように銃撃戦をしたという。

マタギ達が使ったのは火縄銃だけど、一発撃つと直ぐ地面に伏せ敵の弾丸を避け、その間に火縄銃に弾を込めそして撃つ、これを繰り返す戦術を採った。

この射撃方が功を奏して、南部兵をバッタバッタと倒した。

 

秋田の大館では、南部藩が大館城を占拠、現大館市の片山で激戦が始まった。

すぐにマタギ部隊が派遣され、総勢87人がこの激戦に投入された。

ここでもマタギ達が考え出した射撃方で南部藩に大損害を与えている。

 

驚くことに片山での激戦で総勢87人のマタギで戦死者が1人、たったの一人。

いかに名人級の射撃の腕を持ったマタギが多かったかまた、敵の銃撃から身を守るかが巧みだったかが分かる。

これ以降マタギ達が武士とすれ違うときには武士が礼をし、マタギ達は大っぴらに銃を持ち歩けるようになる。

 

現代のマタギの人が言うには、野生動物は低いから命中率が落ちるけど、人間は立っているから弾に当たりやすいという。

そのため誤射による事故が多発するという、けれどもマタギはそんなことは絶対にないという。

マタギはよく観察し急所に一発秘中の弾を撃つため、どう転んでも人間を撃つことはないという。

 

話は飛んだが、マタギの別の視点から捉えた事を書いてみた、日本の内戦という不幸な時代だった、良い悪いは別にしてマタギ達はとにかく持てる力を存分に出した。

 

【参考資料】長田雅彦著「最後の狩人たち」 無明舎 

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