渓流に行くと様々な音が聞こえる。
鳥の声、カジカの声はとてもカエルの声とは思えない、吹き抜けてゆく風の音、などなど。
けれども、まったくの静寂が支配する無音の日もある。
確かあの日もそうだった。
少し蒸し暑い日で、鳥の声も聞こえなかった。
かなり上流域でイワナを釣っていた時、音が聞こえてきた。
上流から太鼓や笛の音が聞こえる、祭り囃子の音が聞こえる。
ハッキリした音ではない、耳を澄ませば聞こえるのだ。
しかし、しかしだ、ここはもう白神山地の領域で、上流には村などない奥深い白神の山々が続くだけだ。
取り立てて怖いとは思わなかった。
耳を澄ませば聞こえる程度なので、意識を渓流の流れる音に向ければ聞こえなくなった。
けれども、釣りに集中すればまた聞こえてくるのだ。
軽い溜息をつきながら、オレは釣り上がっていった。
ここまでは良かった。
ある場所でイワナの25㎝くらいのを掛けた。
イワナを寄せてきたら、何かおかしい形をしたイワナであることに気がついた。
魚の口は普通尖った形をしているが、このイワナはまるで刃物で切られたかのような、真っ平らな形をしていた。
それは一種、人面魚を思わせる形をしていた。
オレは動けなくなってしまった、釣ってはいけない魚を釣ってしまった・・・そう思った。
急激に膨れ上がる恐怖感、どうやって針を外したか今だに覚えていない、思い出せない。
山がオレをみている・・・、そう思うとその場から逃げたくなった。
本流に流れ込んでいる小さな沢を見つけ、必死にその小さな沢を登り道に出た。
それから数週間、釣りには行かなかった。