以前、渓流の河原でテントを張ったことがある。
確か7月の中頃だったと思う。
オレと愛犬のクロで釣りをして、日の落ちる前にドーム型テントを張りフライシートは使わなかった。
いい加減疲れていたし天候も良かったためテント本体だけで済ますことにした。
食事も明るいうちに済ませた、暗くなってからの食事は灯りに集まってくる虫が最悪の食事になるからだ。
味噌汁に飛び込んだ蛾の鱗粉が浮かんでいる味噌汁なんで、アァータ飲めません。
アブが寄ってきたが適当にとっ捕まえて渓流の流れに捨てた、するとイワナがユックリ顔を出し喰っていた。
クロは何カ所か差されたらしく目の敵のようにアブを追い回している。
テントに入る際にも数匹アブが入り込んでしまい、クロは狭いテントを走り回ってアブに噛みついていた。
明日の釣りのため早々にクロと寝た。
テントに何かぶつかっている音で目が覚めた、外で何か起こっている。
目を開けると信じられない光景が展開されている、アブだ。
アブがオレのテント目掛け続々と集結しつつあった、フライシートを掛けなかったせいでアブの様子が分かる。
少しばかりのアブのいない部分は目の前であっという間にアブで塞がれてしまった、テント全てがアブで覆い隠されてしまった、テントの周りを飛び交ったいるのも結構いるみたいだ。
アブの重みだろうか、テントの布が内側にヘコんでいるような気がする。
以前、渓流釣りを扱った本で、著者はたしか山本素石氏だったと思う、話は戦前の頃で山越えをする僧侶だったと思う。
その僧侶がアブの大群に襲われ亡くなるという話を読んだことがある、その話を真っ先に思い出してしまった。
テント内を移動すると移動した先でアブ達が騒ぎ出す、コイツら熱か何かを感知できるらしい。
全身の血が引いていった、生まれて初めて感じる生命の危機、コイツらに全身囲まれたら無事では済まない、話して分かるような連中ではないし、やるかやられるかの二者選択の現実が目の前にあった。
武器が必要だった。
着替えや食事などが入っているバックに手を突っ込み探した、笑うかもしれないけれどバックの中にハエ叩きがあることを心底願った、もちろんあるわけがない。
バックの中から餌釣りの頃使っていた折りたたみのタモ網が出てきた。
オレは驚喜した、これで勝てるかもしれないと。
作戦はこうだ。
餌の川虫を捕ることも出来るタモ網だから網の目も細かい、これを手を休めないで振り回すと遠心力でアブは網から出られない、適当にアブが貯まった頃手で握りつぶす、これは以前にも何回かやったことがある。
これでやることにした、というかこれしかなかった。
肌が露出しないように身支度を調えた。
タモ網を持つ手がわずかに震えている、テントの入り口に向かうと入り口に陣取ったアブが一斉に騒ぎ出す。
奴らはやる気満々だ、オレの血を吸うことにだけで頭の中が一杯らしい。
オレもどっかに吹っ飛んでしまった勇気をセッセと拾い集め入り口のファスナーに手を掛けたが開けることが出来ない。
その時初めてクロが寄り添うようにオレの側にいることに気がついた。
クロは前片足を上げすでに臨戦態勢にあった、オレは決心した。
一気に入り口のファスナーを上げ飛び出した、クロも続いた。
数メートル走りテントに向き直った。
すでに無数のアブに囲まれていて、テントからは続々とオレ目掛け飛来してくる。
無我夢中でタモ網を振り回した、振り回しているとズッシリと重くなる、茶碗一杯分たまると無我夢中で両手で握りつぶした、それをブチマケまた振り回す、これを何度も何度も繰り返した。
瞬きする際に瞼に挟まるヤツ、鼻穴に入り込んだヤツは鼻をつまんで潰した、口に入り込んだヤツはかまわず噛み潰した、甘いも苦いも分からない、服の中に入り込んだヤツは服の上から潰した。
アブの数が激減してくると冷静さが出てくる、モウ勝負はついいるのに奴らは止めようとしないのだ、オレの血を吸うことだけしかないのだ。
オレも敵愾心の塊になっていてアブを捕るのを止めようとしない。
そして、最後の一匹を捕らえ潰した。
オレは正気に戻った。
目の前に広がる世界は正真正銘の皆殺しだった。
すでに死んで動かないヤツ、潰されても飛び立とうとするヤツ、ひっくり返って足だけ動かすヤツ、オレは可哀相だとは思わなかった、タダ茫然と見ていたような気がする。
たかが虫相手ではあるが、オレがやらなかったらやられると、そう思った。